【思い立った日、本日和。】
#春分「神様のカルテ」

春分

 

こんにちは。暦生活の下滝です。

3月も半ばを過ぎ、残すところあと一週間ほどになりました。
“春は出会いと別れの季節”といわれるように、この季節になると別れを惜しむ人々と、新たな出会いへ向けて胸を高鳴らせる人々との波が、駅の中でさざめきあっている気がします。

生きていれば、出会いもあり、別れもある。当たり前に繰り返してきたことなのに、いつも慣れなくて少し寂しいのはどうしてなんでしょうか。

この季節がそうさせるのか、春になるともう会うことのない、会えない懐かしい人の顔をよく思い出します。
今回ご紹介するのは、そんな人と人との繋がりを愛しく思えるような小説「神様のカルテ」です。

 

春分

 

映画化もされたので、内容をご存知の方も多いかもしれません。

主人公は地域医療に従事する医師の青年で、彼の勤務する本庄病院の人々や、古びた住居「御嶽荘(おんたけそう)」に暮らす妻と仲間たちを描いた物語は、ユーモアにあふれ、優しさに満ちています。

医師という以上、やはり人の命がかかった緊迫した場面が何度か描かれますが、その都度「生きる」とはどういうことなんだろうと考えさせられます。

 

春分

 

痛みをなるべく減らして、笑顔の時を少しでも長く生きるための治療。
余命宣告を受け、医学に見放された孤独な身の上の治療。
健康な身体をもっていながら、死に向かいたいものを引きとどめる治療。

どんな決断をしても、この薬を使えばあるいは、この処置をすればまだ、あの人の心臓は動いたかもしれないと、自分の選択は正しかったのか悔やんでしまう。
秒刻みで揺れる生死の境目で、どれだけの判断ができるだろうかと自分に置き換えても、とても想像できません。ほかの何にも変えられない“命”を救う役割を持つ人に課せられた重圧には胸が締め付けられます。

ともすればどこまでも重くなりそうな話ですが、主人公の考え方、古風でユーモラスな言い回しと迅速な対応能力、職場の信念をもった仲間やいつも穏やかな奥さんの存在がこの物話全体をどこか明るく照らしてくれています。

 

春分

 

胸に迫るような描写が多い本作ですが、超ベテランの先生が主人公に言うセリフに印象的なものがあります。

「……人間にとって心臓が一番大事な臓器だ、などというのはただの幻想だ。そんなものより大事なものは山ほどある。……たとえ心臓が力強く動いていても、その持ち主が死を望んでいるのであれば、それはただの機械運動にすぎない」そう告げた後、独り言のように「人は機械ではないのだ」と呟きます。

呟かれた言葉の意味を胸の内で繰り返さずにいられない、考えさせられる一場面です。

 

春分

 

一方で、深刻な描写ばかりでもなく、「門出の桜」という第二話の最後の場面では、人生に苦悩しながら旅立つ友に向けた、仲間たちの想いがあたたかく心に響きます。

まだ寒いけれど、もうそこまで春が来ていて、春を恋しく想うように、自分の正義や、夢や、理想を求めながら、寒い冬をもがいて悩み、苦しみ、迷う。
でも、明けない夜がないように、いずれ気が付けば春はくる。

どうしようもない現実に翻弄されながら、気概をもって強く生きる、生きようとする人たちを、あたたかく包み込むようなエピソードを読んでいると、まるで春の風が優しく頬をなでていくような気持ちになります。

 

春分

 

迷った時は立ち止まって、自分の足元を掘り起こして大切なものを探そう。遠く遠く、前へ前へ進むことだけが正しいことではないから。

猛進だけが人生ではなく、埋もれた大切なものを丁寧に掘り起こす、積み重ねもまた人生だ。そう自分に言い聞かせる主人公の心に寄り添うと、ひととおりだけではない人生の姿が見えてくる気がします。

 

タイトルの「神様のカルテ」がもし存在するとしたら、私たちの悩みや不安や、希望など様々な症状が書きこまれているのでしょうか。

それを見ることは叶いませんが、もしかするとこうした物語の、ひたむきに生きる登場人物の中に、誰のものでもない、あなただけの症状を回復させるヒントが宿っているかもしれません。

思い立った日には、手にとって少しだけページをめくってみてはいかがでしょうか。

 

春分

 

-今回のここに注目!-
「では、住みにくい世の中に」 私が杯を、学士殿がワイングラスをかかげる。
「住みにくい世の中に」 “乾杯”

御嶽荘の仲間である主人公「ドクトル」大学院生の「学士殿」絵描きの「男爵」が夏目漱石の小説「草枕」の冒頭の言葉にならって杯を交わす場面です。

確固とした居場所もなく、己の理想の中で寄り添って生きる彼らの明るい姿に、いつまでもくだらない話をして笑っていられた友人たちを思い出します。

最近会ってないけれど、元気かなと気になる懐かしい人に、桜の便りに合わせて久しぶりに連絡してみるのもいいかもしれません。

 

春分

 

神様のカルテ

著者:夏川 草介
出版社:小学館
定価:本体552円(税別)
文庫本:256ページ
ISBN:9784094086188